· 

札幌オリンピック

僕が札幌で暮らしたのは1966年から1971年。小学生時代を今の中央区円山の当たりに住み、緑が丘小学校へ通っていた。その頃の札幌の人口は83万人で目指せ100万都市を掲げ邁進していたが、冬季オリンピック招致はまだ決定してはいなかった。

その後1967年にテイネ町が合併、札幌で冬期オリンピックの開催も決定、1970年には人口100万人を突破、政令指定都市となる。

1971年には地下鉄南北線(真駒内~北24条)が開通、おりしもトワ・エ・モアの

「虹と雪のバラード」がヒットして本当に札幌市民は「札幌オリンピックを成功させよう」のスローガンの元、オリンピックの開催を心待ちにしていた。

「虹の地平を歩み出て~・・・・街ができる美しい街が・・・

生まれ変わる~札幌の地に君の名を呼ぶオリンピックと~」

 

1964年の東京オリンピックでは「東京音頭」、1970年の大阪万博では三波春夫の

「世界の国からこんにちわ」だ。なんてダサいんだ。今思い出しても恥ずかしくなるわ。

札幌市民は今でも「虹と雪のバラード」に特別な感情移入があり、現在は地下鉄各駅の「駅メロ」にも使われている。

いよいよその時、1972年!

中学2年生になった僕は夕張に転校してスキー部に所属、アルペンスキーを続けていた。1972年2月開催の札幌オリンピック男子回転のチケットを300円で購入して

その日を心待ちにしていたのだが、あろうことかその年の1月にスキー練習中に転倒して足を骨折してしまう。チケットは僕のスキー仲間の友人に譲ることとなってしまった。

いよいよオリンピックは開催、ギブスを付けた僕は連日、TVにくぎ付けになっていた。

スピードスケート男子では日本選手団の主将を務め、選手宣誓をし世界記録を持っていた鈴木恵一が敗れた。

アルペン競技は前回の1968年フランス グルノーブルでジャン・クロード・キリーが三冠王に輝き、札幌大会では前回、キリーに敗れたオーストリアはカール・シュランツに三冠王もしくは滑降での金メダルへの期待が高まっていたのだが、時のブランデージIOC会長の提唱する「アマチュア精神」に反するとしてクナイスル社の副社長を務めていたシュランツは札幌入り後に規定違反者として出場停止の措置を受け

帰国させられたのだった。

アルペン競技はフランス、オーストリアの2大強国の圧勝と思われていたのだが

スイスのルッシやナディヒ、そしてイタリアの英雄グスタボ・トエ二の活躍により

2大強国は沈んだ。

そしてアルペン最終種目の男子回転は無名のスペイン選手。フランシスコ・フェルナンデス・オチョアが2本ともラップを奪い完勝を遂げる。

この時の滑りは本当に完璧だった。

しかし、オチョアはその後のワールドカップレースで表彰台に上がることはなかったが…。

2018年、僕はテイネ山に一人でスキーに出かけた。

山頂へ向かう4人乗りリフトの隣の席にはやたらにテンションの高い外人のおじさんが座り、僕に話しかけてきた。

「聖火台はどこにある?」

「聖火台はここの一つしたのゲレンデでテイネオリンピアにあるよ」

「昨年、癌で死んだ弟は札幌オリンピックで金メダルを取ったんだよ」

「え~、誰?」

「オチョアってんだ」

なんたる奇遇!

「フランシスコ・フェルナンデス・オチョア!」とフルネームで応えられる日本人は数少ないはずだ。

いろいろな話をしたかったが、スペイン語と日本語と英語のミックスで深い話はできなかったが、韓国で行われるピョンチャンオリンピックを観戦しに来たついでに

弟の活躍した札幌の地を見に来たとの事だった。

中央の白ひげがオチョアのお兄さん。

アメリカのフィギア選手ジャネット・リンは「札幌の恋人」と呼ばれ人気を独占。

フリー演技のジャンプ着地で尻もち転倒後も笑顔を絶やさなかったので

日本中の男子はその愛らしさにやられた!

札幌オリンピックもいよいよ終盤、開催国の日本はここまでリュージュという耳慣れない競技で大高優子が唯一5位入賞を果たしたのみでメダルはゼロ。

否が応でも国民の期待はジャンプの笠谷、今野、青地、藤沢の4人の出場選手に集まる。オリンピックは魔物!浅田真央が、高梨沙羅が、内村航平が…

ところがこの時の日の丸飛行隊は完全に神っていて1本めを終えた時点で1~4位まで独占!そしていよいよ2本目、実況アナは「さあ笠谷、金メダルへのジャンプ、

飛んだ決まった!」の瞬間、日本中は熱狂の渦と化したのっだた。

札幌は再び2030年の冬季オリンピック招致に手を挙げた。

オリンピック開催はお金がかかり、またレガシーと呼ばれるその後使われる事もなくなる負の遺産の事などから反対意見も多い。

すでに人口200万人に迫る札幌にはあの頃のような活気はなく、「え~、またやるの。長野で懲りたでしょ」の声も多い。

1972年後の札幌もテイネ山のボブスレーコースや藤野のリュージュコース、恵庭岳の滑降コースなど消えてなくなったレガシーも多く、ウィンタースポーツの普及やジュニアの育成などが進まなかった。

アルペンスキーでさえ練習環境が少なく、なかなか強い選手が現れないのが実情だ。

2030年は今から8年後、僕はとうに70歳を超えている。

冬山ラッセル競争が正式種目になれば、日本代表を目指そうとは思っているのだが…

夢があった方が楽しいしな。

 

札幌は再び、虹と雪のバラードを誰もが口ずさむ町になれるのか!